応仁の乱に入りました

ようやくわかりました

「応仁の乱」が、どういうものだったのか^^

 

1 歴史教師?

私は、歴史の教師には恵まれなかったのか

ただ単に、私が全く勉強しなかっただけなのか

まぁ、どちらでもよいのですが

私には、歴史の知識が皆無です

「ママ先生」なんて言っていますが

歴史に関しては、まったくの無知

中学高校時代も

歴史を学んで面白いと思ったことは、一度もありませんでした

無理やりやらされていただけです

大学でも、歴史関係の講義は選択しませんでした

だから

「応仁の乱」の内容なんて、知っているわけがありません

 

でも、今、息子に対して

「歴史教師」もやっているわけで^^

まさに、名ばかりではありますが・・・

実際、歴史に関しては

ほとんど、小学3年生の息子と同レベルですが・・・

今使っているテキストが素晴らしいおかげで

どうにか「ママ先生」としての面目をつぶさずに

一緒に楽しく歴史を学べています

 

2 応仁の乱

そういうわけで、今回出てきた

「応仁の乱」

はじめて、その内容を知ったわけです

息子がいなければ、一生知ることはなかったかもしれない

息子のおかげですね^^

「応仁の乱」1467年

簡単に説明しますと、この時代

社会がとても混乱しており

それぞれの権力者たちによる権力争いも、絶えず起こり

しかも、天災や凶作や疫病が重なり

想像するに、まさに地獄絵図のような

悲惨な世界だったのだと思います

 

そんな中、時の将軍である、第八代将軍足利義政には

お世継ぎが、なかなか生まれませんでした

生まれるのは皆女の子ばかり・・・

そこで、義政は弟の義視を後継者に決めました

それなのに・・・

まさに翌年、男の子が生まれます!

これが、応仁の乱の発端だと言われています

 

それぞれに野心があり、もくろみがあり、計算があり

権力者たちは戦いを始めてしまいます

身内同士が激しく戦って、殺し合いをした戦争

その情景を想像して

当時戦地になった京都が、焼け野原になったことを知り

長男は、たいそう胸をいためておりました

歴史の中で起こる戦争は

身内同士の、兄弟での親子での戦いが数多くあります

血縁関係のある人たちと殺し合うなんて

息子は、何度そういう戦争の史実を学んでも

理解ができないようです

 

3 実子か養子か

応仁の乱で、敵味方に分かれた

実子と養子の兄弟がいました

当時、大きな力を持っていた「畠山家」です

そこで息子は意外な発言をしました

「え?養子なのに、本当の子供と戦うの?」

どうやら

息子の中では、実子の方が養子よりもエライ!

と、なっているようです

どうしてそういうふうに思うのかな~

息子がそういう考え方をしていることに、少々ショックを受けました

小さい頃は

幼稚園に通っていた頃までは

養子も実子も同じって言っていた気がするのだけど

子どもの成長とともに、考え方も変わっていくのかな

そういう感覚的なことも含めて

小学校ではいろんなことを学んできますね

大人になるまで

いろんな人のいろんな意見を聞いて

自分の頭で考え自分の考えをちゃんと持てる子に

なってほしいなと思います

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